晴れたらそちらへ

 二年生になると、夏奈はちょくちょく窓の外を眺めるようになった。外というか、窓枠の向こうにある何かを。昔から変わった所のある子だったから私はあまり気にしなかったけれど、夏奈とあまり関わりのない子や二年生から一緒になった子達はとりあえず不思議がったり引いたりしていた。
 とはいえ、夏奈の様子はぱっと見た感じでは何がおかしいという訳でもなかった。退屈しのぎに校庭を眺めるなんて誰でもすることだし、夏奈の席は窓際だったから。休み時間に席を立つのが面倒なら、大抵の子は外を見るか本を読むか、そうでなかったら寝る。夏奈の行動は自然さの許容範囲内だったと思う。
 夏奈が不思議がられた理由は、目の焦点が校庭を始めどこにも合っていないのと、窓から何かを見る度に空気を変化させることだった。
 焦点が合わない話は、夏奈の後ろに座っている門脇から聞いた。
 門脇は一年生の頃から夏奈の事が気になっていたらしい。暇があればに夏奈の様子を窺ったりさり気なさを装って話しかけていたのだと言う。そして、ある時彼女の視線を辿って行ったらどこにも行き当たらなかったと。そういう子なのよと答えると、明らかに落胆したような素振り。
「門脇、夏奈のこと好きだったみたいよ」
「うそ、ごめん。わたしあの人駄目。何か恐い。いつもそわそわしてるんだもの」
「あんたが不思議さんだって言ったらがっかりしてたみたいだから、多分大丈夫。諦めたでしょ」
「あ、そうなの? わたし不思議さんじゃないけど」
「窓の外見てる時に焦点合ってないのが不思議なんだってさ」
「あれかあ」
 夏奈は絶妙のタイミングで語尾を濁し、話をうやむやのまま終わらせてしまう。

 焦点云々は門脇しか気付いていなかったけど、周囲の空気を変える事はクラスの皆が知っていた。空気を変えるなんて仰々しく聞こえるけれど、本当にそうとしか表現しようがなかったのだ。
 夏奈が窓枠の向こうのどこかしらに焦点を合わせる。空気がゆらめいたかと思うとたちまち卵型の透明な皮膜を形成する。そして、私がそれに気付くと透明な輪郭が再びゆらりと曖昧になり、形を失う。しかしそれは実態を失ったわけではなく、越え難い境界となって夏奈の華奢な身体を外界と隔ててしまう。隔てるというよりそこが別世界になると言った方がしっくり来るかもしれない。境界のあちらにいる限り、私は話しかけることも触れることも出来ない。そんな気にさせられる。
 休み時間が終わるか夏奈の気が変わると、釣られたように空気もこちら側へ戻って来る。
 新学期が始まって一ヶ月が過ぎる頃には、誰も夏奈の事を気にしなくなっていた。自分の集団だけで十分忙しくなったからだと思う。新しいクラスの様子見期間が終わり、腰を落ち着ける時期が来たのだ。休み時間になると教室のあちこちで空気の流れがまとまるようになった。程度の差はあれ外界と集団を隔てる壁が生まれ始める。夏奈とどこが違うのか私には分からなかった。

 私は気合いを総動員して、あちら側にいる時に話しかけた。
 意外にも夏奈は普段通りの反応を返して来た。少し抜けたような声と緊張感のない振り向き方。
「外、何見えるの?」
「何って景色? 志穂ちゃんも見えない?」
「どれどれ」言いながら夏奈の机に乗り出して外を見る。校庭。ネット。体育館。奥を流れる川。何の変哲も無いいつもの風景。夏奈が焦点を合わせている所には何もない。
「門脇が顔面レシーブしてる」
「そわそわしてるから」
「そのくらいしか見えない。いつも何か見てるじゃない。あれ教えてよ」
 夏奈の端正な顔には困った表情が浮かぶ。
「何って言うと何でもないんだけど、うん、でも何もない訳じゃないよ。見てるっていう訳でもないのかな。志穂ちゃんもきっと分かると思う。大げさに言うとあれかな、世界?」
「うん、よく分からない」私は笑う。「夏奈はそれ、どうするの。そっちに行っちゃう?」
「そのうち行く。でも今はまだ。何かあっちはずっと曇ってるんだもの。雲が赤茶けてて、すごく不穏な感じなの。そういう時ってあんまり行きたくないじゃない。やっぱり晴れてないとちょっとね」
「晴れたら行くんだ」胸の辺りを絞られるような、小さな痛みが走る。それに知らん振りを決め込もうと言葉を継ぐ。
「あのさ、それ私にも見えるようになるかしら」
 夏奈は笑顔で頷く。

 空をすぐ近くに感じられるようになった頃、夏奈はあちら側へ行った。
 私が文庫本から目を離すと、丁度空気が変化を始めるところだった。何度目にしたか知れない動作。でもいつもとは何かが違う。何だろう。私は教室を二度三度見渡してからやっとそれに気付いた。誰も夏奈を気にしていなかったのだ。門脇を含めてみんな夏奈の方を見ようとはしないし、視界に入っていても全く反応しない。いい加減見慣れているとはいえ、不自然な光景だった。
 それを知ってか知らずか、夏奈は堂々と机に上り窓の外へ向けて手を伸ばす。そして、そこにある何かを確かめるように何度か叩いてから今度は上半身を乗り出す。私は跳ねるように立ち上がった。夏奈はその音に気付いてこちらを振り返り、ひらひらと手を振りながら小さく口を動かした。私はそれを聞き取れず、何も言葉をかけられないまま中途半端に手を上げて見送るしかなかった。
 そうやって夏奈は行ってしまい、後には何も残らなった。

 夏奈がいなくなった事には誰も気付かなかった。というより元からそんな人間はいなかったような雰囲気。最後まで気にかけていた門脇ですら夏奈を思い出さない。窓際に一つ席が空いた事にも不自然さを感じている人はいないみたいだった。
 席替えがあって、私は夏奈がいた場所に移動した。
 柱のすぐ後ろに位置する何の変哲も無い席。確かに見晴らしはいいし教師からも程よく離れているけど、夏奈が言っていた不穏な曇り空も別世界も見えはしない。校庭では幅跳びの真っ最中だし、その上を横切る雲は噴煙みたいな形で夏の到来を予告している。
 私は窓から外を眺める度に夏奈の事を考えた。彼女はここから何を見ていたのか。どうやって見ていたのか。みんなに忘れられて、知らない所へ行ってしまって、それはいいけど私はどうするの。

 席替えから半月が過ぎても変化は起こらなかった。どれだけ考えても夏奈は帰って来ない。帰って来られるとしても多分状況が許さない。私一人が何もかもを覚えていて、宙ぶらりんのまま放置されているように思えてならなかった。夏奈はきっと向こうで一人楽しくやっているんだ。
 門脇が話しかけて来た時も私はそんな風に被害者気分を満喫していたので、大分つっけんどんな反応をしてしまった。
 みんなが心配している-みんなが誰なのかは分からなかったけど-。席替えの前から窓の外ばかり気にしているけど大丈夫かどうか。私の返事が悪かったのか、彼はいつも以上に落ち着きの無い様子だった。私は軽く謝ってから聞き返す。例えば友達がどこかへいなくなってしまって、それを自分だけが覚えているとしたらどうしたらいいか。
「忘れなければいいと思う」門脇は、びっくりするくらい落ち着いた調子で言った。
 その言葉で霧が晴れた。
 門脇にお礼を言って再び窓の向こうに視線を戻す。周りからは大丈夫そうに見えないだろうけど、もう大丈夫。難しい事じゃない、私はただ覚えていればいいんだ。瞼が震えるのを感じて、目立たないよう指先で拭う。
 すると、涙でぼやけた風景の一点から赤茶けた光が差し込んだ。それは瞬く間もなく視界を占拠してしまい、今まで感じた事もない空気の流れを作り出した。私が状況を把握できないでいると、空気はすぐに薄らいで元あったものに置き換わる。しかし、光は消えない。わざと焦点をずらして物を見た時のように、教室と重なって夏奈の言っていた世界が映し出されている。見た事も無いような高さまで石柱が伸びていて、その上に横たわる空をくすんだおぼろ雲が流れている。夏奈の言う通り不穏な色だ。雲だけじゃない。世界が赤茶色に染められている。確かにこれは近づきたくない空気感。夏奈が晴れるまで待ったのも頷ける。
 視線を感じて振り向くと、世界は前触れもなく消えた。何人かが私の方を不審そうに眺めていて、目が合うと慌てて気付かない振りをした。私は気にせずたった今起きた事件を反芻する。夏奈の感じていた場所は本当にあって、彼女は今でもあちら側にいる。そしてその世界は彼女だけのために存在するわけではないのだ。あの突き抜けたような高い空もでこぼこの石柱もただそこにあり、それは私だって感じることができる。夏奈もそこも遠い彼方じゃない。
 あの時夏奈が何を言っていたのかやっと理解できた。またね。さよならじゃない。
 私は再び目元を拭い大きく伸びをする。門脇がまた隣に立っていて、さっきよりも心配そうな表情を向けて来る。
「今、どこも焦点合ってなかったぞ。変だよ。本当に大丈夫?」
「そういう子なのよ、私」
 チャイムが鳴り、門脇は納得しかねる様子のまま席に戻って行く。彼はずっとああいう役回りなのかもしれない。不審がっている子達も。それが良いのか悪いのかは分からないけれど。

 とりあえず、私も晴れたら行ってみようと思う。


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