吹き飛ぶ前に

 イズミが呼んでる。太ももまで海につかったまま上半身だけこっちを振り向いて、右手を上げて視線だけはわたしの目にじっと狙いを定めて。その女の敵みたいに白くて細い身体の向こうには両側から張り出した双子ウツボ岩と、その間から見える水平線。ついでに月。月はここからでも表面の凹凸がはっきりわかっちゃうくらい近くまで降りてきてる。海に落ちるまであとどのくらいだろう。
 この小さな入り江はまだ凪いだままで、これから起こる事なんか全然知らないみたい。
 わたしは波をかき分けてイズミに追いつき、折れちゃいそうな首に思い切り抱きつく。イズミはびっくりしたのか単に力が足りないだけなのか、うわって叫んで後ろによろめいてそのまま水面に倒れ込んだ。わたしも道連れになって思いっきり顔ぶつけてちょっと痛い。っていうか腰に腕回して支えてくれればいいのに何泡食ったような動きしてんの。どうして欲しいかいいかげん気付け!
「なになに?」イズミは片手でわたしを押し戻しながら言う。何じゃないっての。
「イズミィ、せっかく新しい水着のお披露目をあんたにだけしてあげようってわざわざ学校さぼってここまで連れてきたわけじゃん? 海とか見てないでこっち見てよ。ビキニだよ。新作。このさい穴空くくらい凝視しちゃってもいいから」
 イズミは呆然とわたしの顔を見返して、それから視線を我ながらスレンダーって感じの身体に移して少し赤くなる。よしよし。
「でも」とイズミ。「学校もう終わってるし、やっぱあれすごいよ。何となく見ちゃうし、その」
「その?」
「えぇー、その、ごめん」
「よろしい」
 それからわたしは改めて世界の向こうを見やる。月はさっきよりずっと海面に近づいてて、もう水平線との間に指三本挟めるかどうかってくらい。牙みたいなウツボ岩が描く不完全なアーチに、あといくらかで先端が引っかかる。確かにあれは目を奪われちゃうかも。
「見ちゃうっていうかとりあえず逃げるでしょ、普通。わたしらだけだよ海水浴なんかしてんの」
「かもしれないね」
 イズミが屈託なく笑うから、わたしは思わずまた抱きついてしまう。今度は準備できてたのかきっちり受け止めてくれて、しょっぱい水飲まないで済む。水着姿見て赤くなるのに何でこういうのは恥ずかしがったりしないのか不思議です。わたし、そういう奴だと思われてるのかな。別に誰にでも抱きつくわけじゃないんだぞ!
 で、そんなこと考えてたら、今度は寒くもないのに身体が震え出したことに気付く。
「イズミ、わたしビビってる」
「何に?」
 色々だよ。でもそんな言い方ってないからわたしは黙って、イズミが何か言ってくれるのを待つ。風が強くなってきた。後ろの方で松の葉が騒ぎ始めてる。何があっても大丈夫って感じの防風林だけど、今度ばかりは働いてくれないんだろうな。
「五月」
 イズミの声で我に返る。
「人って書いて飲み込むといいよ」
「イズミそれ違う。ていうかしょっぱいじゃん、手」
「そう?」
「そうだよ。だめだめ。わたし、冗談抜きでほんとに怖いんだもの」
 イズミのか細い手がわたしの背中をポンポンと叩いた。少し冷たくなってる。水に浸かってたからかな。いや、きっとそれだけじゃない。イズミも怖いんだ。落ち着いたような顔してるけど、そうに決まってる。わたしはそれで独りぼっちじゃない事を再確認して、少しだけ安心する。
「大丈夫だよ。や、大丈夫じゃないけど」背中の手に軽く力が込められる。「僕も怖いけど、五月がいてくれるし」
 少し大きな波が打ち寄せて、わたし達は砂浜の方に押し返された。勢いでひっくり返って今度はわたしがイズミに押し倒されかけの状態になった。
 ちょっと待ってまだ準備完了してないのに何それって、さっきと違うきっちり目標定めた恐がりさんになって、表情ぎこちなくしてイズミを見上げると、いつも通り迷いのかけら一つない真っすぐな目。悔しいけどこれには勝てない。
 イズミはわたしの目を見て何を思うんだろう。ちゃんと映ってる気持ちとか理解してる?
 空気がざわついてきたので慌てて意識を遠くに戻す。イズミも釣られて振り返ると、小さく驚きの声を上げた。月はもう水平線に触れる寸前だった。
 時間なし。
 わたしは勢い半分に決心してさっと身体を起こした。まとわりついた海水が音を立てて落ちて行く。そのさあっていう響きを聞いてイズミが再びこっちを向く。
「イズミ」
「はい」
「倒れないでよ」
「は?」
 わたしは目を閉じると同時にイズミの首を思いきり引き寄せて薄い唇にキスをした。少し歯がぶつかったけど気にしない。海の彼方から爆発開始みたいな音が飛んで来たけど気にしない。イズミが明らかに動揺してるのが伝わってくるけど気にしない。いえ気にします。わたし、最後の最後にやっちゃった?
 目を開けるのも唇を離すのも怖くてしばらくそのままにしてたら波と一緒に衝撃波が襲ってきた。後ろで木の幹が折れる嫌な音がする。ずっと昔、散々登ろうとして止められた木。台風の時に町を守ってくれた木。わたし達も飛ばされそうになって、二人して必死に踏ん張ってるけどいつまで持つかわからない。どうしよう全部終わっちゃう。
 イズミが何と両手で抱きしめてくれたのでわたしはやっと唇を離して、次の瞬間世界が光に覆われてるのを知る。月が落ちた辺りを中心にして、イズミとウツボ岩の輪郭を縁取るように目を開けてられないくらいの光が扇状に広がってる。まるで色のない花。そしてさっきから聞こえてる音はどんどん大きくなって、もう波の音もうっすらとしか聞こえない。こりゃ津波が来る前に吹っ飛んじゃうなあ。
「五月!」イズミが叫ぶ。
「何?!」
「……!!」
 聞こえませんよ。
「わたし、イズミが一番好きだよ!」お構いなしに叫んでみる。今さら告白してどうすんの。でもいい、しないより全然いい。
 光が迫ってきてる。あれがここまで届いたらわたしの世界は終わり。イズミも終わり。あと何秒持つんだろう。あ、ウツボ岩がそろそろ消えちゃいそう。地震の時、津波止めてくれてありがとね。
 と、イズミがわたしの耳元に口を持ってきて、あらん限りの声で再び叫んだ。
「僕も五月が好き! 一番!」
 良かった。やっちゃったとばかり思ってたよ。
 わたしは最後の最後にもう一度イズミを抱きしめてほっぺたにキスして、イズミの顔を真っ正面から見つめる。何かイズミも満ち足りた表情。あああもっと早く告白しとけばなあ。でもいいや、キスはしたし。
 間もなくわたしとイズミの身体も意識も光に吹き飛ばされて、世界は勢い良く終わってしまう。バイバイ。心の中でつぶやくと、涙が一滴ほっぺたを伝う。最後に感じたのはイズミの身体の温かさ。

最後まで読んでくれてありがとう