音楽の終わり

 光が走っている。眼下に広がるのは青く奥深い海。水平線は終わりのない直線を描き、彼の四方をつかず離れず取り囲んでいる。
 光は堅苦しく脈打つ色の無い石を中心に据えて、色とりどりの火花を散らしながら水面すれすれを走る。きりもみし、傾斜をつけて左右に旋回し、泡の無い波をなでるように軽く降下する。彼が近づくと水は瞬時に蒸発して、その内側に切り取られたような円環を描き出す。
 しゅっ。
 彼の跳ばした火花が衣擦れのような音を立てて海に消える。それらがいくら鋭く光っても、底深い海にはかなわない。赤い閃光も緑の雷も、みな平等に飲み込まれて行く。
 また火花は空に向かって爆ぜ、さりげない音楽を辺りに響かせる。もやのかかったオルガンのような音。粒子が連なった無機質な音。空気を切り裂く鋭利な音。繰り出される音は時に重なり合い、絶妙のアンサンブルとなって彼の後方に楽曲を残して行く。
 光の前方に薄闇のような層雲が現れたかと思うと、空と海を分厚く隔てるそれは見る間に辺りを覆い尽くす。彼はそれを不吉とも思わず、速度を緩めることなく雲の支配下に突入する。風を伴わない豪雨が彼に降り注いだ。しかし重苦しい雨粒は彼の心臓に届くことなく大気へと還元される。飛び散る火花とぶつかり合い、小さく弾けて消える。
 雨はまた新たな音楽を生み出した。海面に打ちつけられる隙間のない音をバックに雨粒の消える音がリズムを刻む。火花は闇の中でゆらめくオルガンのような音を発し、暗鬱たる空に深みを与え続ける。
 間もなく雨雲を抜ける。雨粒のカーテンは見る間に遥か後方へ去り、空の単なる一角に変わって行く。それは灰色のグラデーションを描く雨雲を屋根にした、実体のない家を思わせる姿である。
 今や目の前には気が遠くなるような大空と平面にしか見えない海が広がるのみ。彼は何を思う事もなくただ走り続ける。時々雨を懐かしむように水の中へその身を沈め、そして再び宙空へ浮き上がる。通ったあとには何も残らない。こそぎ取られた空間が何かを求めるような空虚さを表現するだけである。光は尾ひれさえ残さず、孤独な旅に没頭する。
 どれだけの時が過ぎたのか。突然海に大きな穴が空いた。白く泡立った水は穴の中心に向かって急角度で落ち込み、底なしの闇へ滑り込んで行く。渦潮である。無駄と知りつつ敢えて表現するならば、小さな国を飲み込んでしまう程の大渦である。しかし、渦はその巨大さに似合わない滑らかな斜面を持ち、海を飲み込む様子には秩序すら見て取れる。規則と不規則をない交ぜにしてうねる様子は整う寸前の陶器のようになまめかしい。
 彼は迷うことなく進路を変え、渦潮の中へ飛び込んだ。螺旋状の水壁には目もくれず、渦の中心を海底へ貫いて行く。透き通った海水が作り出す闇へ、深く深く。後には残響のように彼の軌跡が残された。それは渦潮を支える心棒のようにも見え、彼と海の親しさをほのめかす。
 それからまた、いくらかの時間が過ぎ去った。日は一旦落ちて月に出番を渡し、頃合いを見計らって再び水平線から顔を出した。星々はその光にかき消され、月もぼんやりとした輪郭を残して眠りについた。彼らのやり取りの下で、渦潮は徐々に活動を緩めて行った。国一つを飲み込める力強さはいつの間にやらなくなって、大都市一つがやっとという大きさに減退した。次いで地方都市、村、集落、山小屋。それに伴って彼が奏でていた音楽も変化する。一時は壮大なオーケストラに似たスケールだったのが、今や静かに語られるインプロヴィゼーション。その音から若さは完全に失せ、打って変わってなだらかに来る死へ向かう悲哀が支配する。
 間もなく光が中心から飛び出し、渦は最後の一小節を力一杯叩き出して消えた。
 海は三たび平穏を取り戻した。太陽が薄雲を通して投げかけてくるぼんやりした光は彼にも平等に届けられ、心臓を成す石にも確かな生命力を与える。湿り気を帯びた空気は柔らかな上昇気流を生み出し、彼がそこを突っ切ると見えないトンネルとなって殺風景な世界に彩りを加えた。
 と、水平線に向かって一筋の閃光が走った。閃光は薄水色の空を斜めに切り裂いて海の果てに向かう。そして、その先端と水平線が触れた直後、一瞬にして巨大かつ完璧な半円が空をキャンバスに描かれた。それにいくらか遅れて彼の元へ音が届けられる。音程も震えも感じられない、光線そのもののような音。続いて、大地が崩落する重々しい響き。
 描かれた半円は時間と共にうすれ、その中心に向かって海が飲み込まれた。水平線は乱れ、津波同士が衝突し、重なり合い、過渡的な渦を形作る。彼が先ほど戯れた渦潮とは似ても似つかない、混沌で満たされた水の競演。
 それにやっと収集がついて彼の斜め後方へ消え去る頃、別の閃光が、今度はすぐそばに落ちた。周囲の水分が瞬く間に蒸発したかと思うと、同様の破壊が繰り返された。そしてもう一つ、今度は彼のすぐ後ろに。更には三つ、五つと数を増してそこいら中に閃光が、高熱の雨となって落ちてくる。そのうち一つは彼をかすめ、中心に据えられた石のいくらかをこそぎ取って行った。
 閃光はなおも容赦なく突き刺さる。少し前まで海だった風景は、もはや球状の爆風が林立する週末の庭である。閃光は海水を干上がらせ、その奥にある大地を事も無げに破壊し、空気という空気を焼き尽くしてゆく。
 彼はしかし、取り巻く惨状など知らん顔で滑空を続けた。時に爆風を貫き、海中を潜り、軽やかなステップで見えない道を駆け抜けた。
 そしてとうとう全ての破壊が終わった時、彼は闇の中にいた。どこまでも続いていた眼下の大洋は水滴一粒も残さずに蒸発し、その下で眠っていた岩や土も今や真空をさまよう小さな欠片。頭上にはやけにくっきりした光線を放つ太陽が残るのみである。彼と共に音楽を奏でた雨雲も渦潮も、もう過去から聞こえない音を響かせることしかできない。
 ここに至り、彼は歩みを止めた。それまで作り出してきた道が間もなく無に帰る。閃光に削られた石は疲労の極地にあったし、光は保たれるだけで精一杯といった有様である。音は消え、死の予感が真空から押し寄せた。
 その時、巨大な火の玉が彼の目前を通過した。彼の石とは比べ物にならないほど立派な心臓を中心に据えたそれは、紅色の尾をたなびかせながら重々しい足取りで無の空間を切り開いて行く。
 彼は残された力を振り絞り火の玉に飛び込んだ。その心臓を取り巻く高熱が彼の石を溶かし出し、軌道をぶれさせる。しかしそれでも彼は突き進み、遂に火の玉の心臓に到達した。
 純白の光が爆ぜた。それは光速で火の玉の表面一杯に広がり、炎を吹き払った。火の玉は勢いを失い、間もなく太陽の支配下に置かれた。
 やがて彼が残した白光も消え、火の玉だったものは巨大な岩塊となって楕円軌道を描き始める。軟らかく溶解していた岩は長い時を経てそれぞれの住処に腰を据え、水を解放する。水は空へ上り雨を降らせ、海となり、闇を打ち払った。
 そして、更に数えきれない回数だけ楕円軌道を描いた頃、今や岩塊を覆い尽くした海に小さな石が浮かび上がる。石は陽光を浴びるや否やそれに負けないほどの輝きを放ち、水面を切って走り出す。
 しゅっと海水が蒸発し、新たな音楽が生まれた。

後書き

 まさか全部書き上げるとは思わなかった。
 無機質大好きが一番盛り上がっていた頃、いっそ光で一本書いちまおうと思って始めた話です。さすがにやり過ぎじゃねえのと思い直して途中で投げ出したんですが、友達に話したら別にいいじゃないって言ってくれたので完成させました。でもこういうのはしばらく書かないだろうなあ。台詞が一つもないのは書いてて疲れます。というか生物すら出て来ないしね。
 感想を聞いてみたい作品ではありますが、大半の読者に首をひねられてしまいそうだ。


最後まで読んでくれてありがとう