衣擦れ

 六畳ほどの部屋にTVラック、机、低いガラステーブルとセミダブルまでは行かないが若干幅のあるベッドが置かれている。フローリングの大半は背の高い絨毯で覆われ、茶褐色の木目は端々に顔を覗かせるのみである。TVラックの下段には雑誌のバックナンバーがランダムに並べられ、机の上ではPCと、それに横付けされた学術系のハードカバーが十冊ほど直立不動の体勢を保っている。部屋の空気を白く染める照明は薄いシーリングタイプ。そのおかげか天井は実際より高く感じられ、引いては部屋全体を広く見せる。純白の壁紙と相まって、部屋は一種の無菌室を想起させる作りである。しかし内装からわざと浮かせているかのように、ベッドと掛け布団のカバーは無地のピンク色。控えめな色使いではあるが存在を主張するには十分な派手さと言える。
 そのベッドを占領する格好で上下スウェット姿の女の子がうつぶせに寝転がっている。枕元に開いたファッション誌を眺めながら時々あくびをし、けだるい手つきでページをめくる。両腕をクロスした上に乗った顔からは気力のかけらも見て取れない。
 ベッドにはまた、十七、八才くらいの男の子が寄りかかっている。頭をちょうど女の子の腰近くに乗せ、顔だけは天井を向けて、その目は閉じたままである。ぱっと見ただけでは眠っているのかどうか判別しにくいが、時折伸ばした足を組み替え、手の位置を度々ずらしていることから意識は覚醒しているのだろう。彼もスウェットに身を包み、完全にリラックスした様子である。
 彼は閉じた目の奥で不規則に変化するノイズを追いながら、ツグミ、と声に出さずに呼ぶ。彼女の名前である。その無音の響きが彼の身体を一周して脳に帰ると、収縮していた神経が開き真後に横たわるツグミへと向けられる。
 ツグミが頬にかかった髪をかきあげる。念入りに手入れされたストレートヘアがかすかにささめき、またスウェットのこすれ合う音は静かな部屋に軽い反響を呼び起こす。彼の耳に衣擦れの音が入り込んで聴覚から視覚へと渡り暗闇の中に像を結ぶ。
 彼はツグミの髪に隠された首筋を思い浮かべる。染みのない美しい肌である。そこから頸椎を伝ってスウェットの下でゆっくり隆起する背中へ。姿勢の良さに培われたきれいなS字の背骨に乗ると、バージンスノーのようになめらかな坂を滑り鳩尾の裏のくぼみを通過、腰骨に辿り着く。彼は一旦そこで立ち止まり、少し迷ってから形良い尻の右側を乗り越えふっくらとした太ももへと歩を進める。なだらかな山の稜線を思わせる足を慎重に進み、膝の裏で一息つき、ふくらはぎの丘を越え、危うげなアキレス腱の橋を渡り、皺の無い踵に着いたところで視覚の旅を終える。
 ツグミの踵は魅力的だと彼は思う。マッサージをしてやっているとき目に入る彼女の踵は、髪と同様手入れが行き渡っているのか疲れというものを全く感じさせない。なでればつるりと抵抗無く指が滑り、角質のかの字も見えないほどやわらかい。一度思いあまって舐めたことがあり、それ以来マッサージの際は必ず靴下を履かれるようになったためしばらく目にしていないが、きっと変わらない優美さを讃えているのだろう。
「卯月」
 彼は自分の名前を呼ばれて目を開いた。気付けばツグミは身体の向きを変えて、頭を彼の肩に乗せる形で頬を寄せてきていた。卯月は動揺することなくツグミの視線に自分のそれを交わらせる。彼女の目には見て取れるほどの疑惑が詰められている。
「あんた、今エッチなこと考えてたでしょ」
 卯月は何のことか分からないと目で訴えた。だが彼女の疑惑は薄れる気配がない。仕方なく口を開く。
「考え過ぎじゃないかな」
「いーえ違います。あんたがそういうことしてるとね、わたしは感じるの」
「感じる?」
 ツグミの目がわずかに細められ、その左手が卯月の頭をつかんで二度三度と振った。
「感じるっつってもそういう意味じゃなくてね」
「分かってるよ」
「ほんと? まあいいんだけど、とにかく感じるのよ。踵舐められて以来、あんたがそういう風になると全部伝わってくるの。今も背中とかお尻とか足とか見られてたの。そうでしょ?」
「見てはいないんだけど」
「じゃ、妄想してたでしょ」
 身もふたもない言い方をされ、それでも彼女の強い視線に気圧されて卯月は頷く。
「ほらやっぱり」
「業みたいなものかな」
「業?」
「うん。ツグミと僕の間に生まれた業」
 ツグミは一層目を細めた。茶色がかった黒目に浮かぶのは既に疑惑ではなく邪念への追求である。卯月の目に負い目が浮かぶのを辛抱強く待つ断罪者の目。しかし彼にそのような気はまったくなく、いつもそうであるように彼女は我慢出来なくなって目を伏せる。
「そんな業、やだ」
「ごめんね」
「謝られんのもやだ」
 卯月の顔に好ましげな微笑が浮かぶ。
 ツグミは彼に向けて多くを語る。それは語らずにはいられない種類の言葉ではなく、卯月ならば良いだろうという安心感から来るものである。卯月もそのことを知っている。ツグミは大学ではどちらかというと大人しく、酒を飲んでも乱れることはないが、彼と二人になった時は胸の内で整えていた感情を軽くほどいて解き放つ。ほどかれて糸のように細く柔らかくなったそれらは卯月の背筋を優しく撫で、ため息の出るような淡い感覚を体中に浸透させる。卯月は、それで、ツグミのことが好きなのだ。
 二人が黙ると部屋に静寂が戻る。今度はツグミも動こうとせず、無音の空間を守るように息を沈めている。外は閑静な住宅街で、夜半を過ぎると人もほとんど通らない。
 その静謐を消防車のサイレンが小さく破った。ツグミはどことも知れない方角を振り返り気にするような素振りを見せる。両腕を卯月の首に回して注意を引こうとする。
 サイレンは闇の中のろうそくを思わせる点だったのが、わずかずつ大きさを増して彼らのアパート方面に近づいてくる。しかし周囲に慌てた空気も大きな声もないため、二人は緊張を身にまとう素振りも見せず、そのままの体勢を崩さない。
「火事だね」卯月が先に言った。「多分、近い」
「向かいの家だよ」
「わかるの?」
「感じるの。あんたに踵舐められたからだね」
「いい事じゃない?」
 ツグミは黙って卯月の首を絞めた。最初に強く力を入れたせいか頬から一瞬血の気が引いたものの、彼は別段焦った様子もなく、されるがままになっている。
「良くても悪くても、あんたが言うことじゃないのよ」
 にっこりと笑い返す卯月。ツグミの細い腕から力が抜ける。
「ま、今回は良しとしといてあげる。外出てみる?」
「外は寒そうだから」
「パスね」
「うん」
 サイレンの音は更に大きくなり、もう数ブロック程度の距離まで近づいている。隣の部屋の玄関が開いて人の出て行く音がした。足音は間もなくサイレンに紛れて消えたが、代わって道路で何やら話し声がし始める。向かいの家の家族と話しているのだろうと卯月は思った。
「もし風向きの関係で火の粉がこっちに飛んで来たらどうする?」と卯月。ツグミにとっては唐突なタイミングだ。
「別にいいや。部屋の中に火が移らないなら放っとこうよ。だって寒いでしょ」何の気なしにツグミは答える。卯月が持つ独特のペースを理解しているのである。
「それじゃ僕もそうする」
「実は逃げようと思ってた?」
「逃げてもいいなと思ってた」
「駄目よ。寒いもん」
 消防車は果たしてアパートの前に止まり、がやがやと消防士達の降りる音がした。放水作業に取りかかるようだ。野次馬が集まってきたのか、話し声の密度も高まっている。しかしそれら全ては一旦入り込んでくるもののニュートリノのように減速なしですり抜けて行き、部屋の静寂は依然として乱されていない。火事と部屋は別次元に切り離されたようである。
「もしさ」と、今度はツグミ。「もし本当に火の粉が飛んで来てここまで火事が広がっちゃうとするじゃない」
「うん」
 ツグミは卯月の胸元で両手を組み、肋骨をとんとんと叩いた。
「その時、万が一わたしが雑誌に飽きて寝ちゃってて、どうしても起きないくらい熟睡状態だったら、ちゃんとお姫様抱っこで救い出してね。髪一本でも燃やしちゃ駄目よ」
「僕は力がないから無理だよ」
 両手が卯月の頬をつかんで引き延ばした。これまたけっこうな力が込められているが、卯月は気にした様子もなくツグミの顔に目を向ける。そして、黒目にそこそこ真剣な光が浮かんでいることに気付く。
 三秒間の沈黙の後で卯月は答えた。「わかった、やります。その代わり仰向けに寝ててもらっていいかな」
 ツグミの表情が和らいだ。
「いいよ」
 放水が始まったようで、水流の破壊的な音が夜の住宅街に広まって行く。
「あとさ、いつも思うんだけど、痛くないのこれ」
「痛いよ」
「じゃ、そう言ってよ」
「何だかね、勿体ない気がするんだ」
「痛いのに?」
「うん」
「でもわたしは張り合いないんだよなあー」
 卯月は笑った。
 外で消防士の怒声が響いた。作業は本格的なものになっているようだ。カーテンを閉めているから分からないが、もしかすると外まで火が出ているかも知れない。卯月はその光景を思い描き、すぐに止める。とりあえずは別世界の出来事だ。
「たまには痛いとかやめてとか言ってよね」とツグミ。
「忘れないようにする」
 その言葉を聞いて満足したのか、ツグミは卯月から離れて元の体勢に戻り雑誌に視線を落とす。緊張感のなさは火事が起こる前と全く変わらない。
 外では消防士と野次馬の声と放水音が乱れ飛んでいる。ツグミは気にせず薄いページをめくり、時折あくびをする。卯月は再び目をつぶり、ベッドから聞えてくる衣擦れの音に耳を澄ませている。



後書き
 永井豪の漫画を少し参考にしました。

最後まで読んでくれてありがとう