この旧校舎はもう危ないって言われている。それで取り壊し前のお別れに来たんだから、僕だって落ち着いてる場合じゃない。
こんな事になる前に頑張って帰れば良かったんだ。ここまで風が強くなってしまったらもう外になんて出られない。監禁状態だ。どうしよう。
思い返せば、危ないから台風が通り過ぎるまで待とうなんて言ったのは五月じゃないか。
「五月」
「何よ」五月は泣き出しそうな声を返してくる。駄目だ、何も言えない。
「無事に帰れるといいね」
「何なのよ!」
五月がわめくのとほぼ同時に雷みたいな音がした。
窓のすぐ外に立っていたソメイヨシノが根元からへし折れて、迷うことなくこっちに向かってくる。五月の動きと表情が凍りつく。僕は咄嗟に彼女を抱きすくめた。
春には腕いっぱいに花を抱えていた大木は重々しい音を立てながら壁と窓にとどめの一撃を加えた。そして僕達から少し離れた所に勢い良くごとんと寝転がる。下にあった机がひしゃげて割れて、スローモーションで隣の机にのしかかる。
その音で正気に戻った僕達の感覚を、瞬く間に暴風雨が占拠した。奴らは容赦のかけらもなく割れた窓から侵入し、教室を飛び回り、僕達をあざ笑うように渦を巻く。本当に解体業者の手間を省いてくれそうな勢いだ。
吹き抜ける風と床を打つ雨の音に五月の悲鳴が混ざり合って、教室はもはや別世界だった。窓ガラスは順番に割れ散って来るし、壁も柱も耐えかねたみたいに折れ曲がる。僕は五月を守る以外に何もできない。
割れた窓から外に出られれば。いや無理だ。薄闇の彼方にオレンジがかった光がゆらめいている。新校舎が燃えているんだろう。普段なら一分もかからないあの建物が今は海の向こうみたいに遠く感じる。
「やだ、もうやだ!」五月が金切り声を上げる。
「僕だって嫌だよ!」
「それじゃ何とかしてよ! 何言ってるか分かんないよ!」
分かってるじゃないか。そんな言葉を飲み込んだ刹那、首ががくんと前に折れた。足腰から一瞬力が抜けて、思わず五月を支えにする。次いで後頭部が何だかひりひりと痛み出した。
「ちょっと!」
「何でもない、大丈夫」言いながら痛みの辺りをまさぐると、つむじのすぐ下に生暖かい感触。慌ててその手をスラックスになすりつける。本当に死ぬかもしれない。
次の瞬間、世界が白く染まった。荒れ狂っていた風も雨も消え去って、辺りには物音一つしない。見えるのは柔らかい光みたいな白と五月と僕だけ。
五月は僕の腕の中で震えている。この世界に気付いていないんだろうか。
やがて五月の向こうに人影が現れた。五歳くらいの少女で、泥だらけの人形を抱きしめて泣いている。それが五月だと気付くまでに長い時間はかからなかった。
次いで半袖セーラー服姿の中学生が僕に微笑みかけて来る。短めの髪にさしたヘアピン。彼女も五月。それが消えると今度はTシャツにジーンズ姿の五月が涙を拭き始めた。映画を見に行った時か。更にはブレザーを来て不安げな表情の五月。ついさっきの場面だ。
これは世に言う走馬灯に違いない。でも、何だって五月ばかり。ここに五月がいるからだろうか。ああもう。
「五月」僕は思わず声に出して言った。「五月しか出て来ない。走馬灯」
五月はワンテンポ置いて、それから叫んだ。「何言ってるのか分かんない!」
それを合図に暴風雨が戻ってきた。ピークなんだろう、立っていることさえままならない。もう早く行ってしまえ。心の中で叫んで五月を抱く手に力を込める。
その時、巨大な爆竹が弾けたような音を立てて、天井が空へめくれ上がった。そして壁の一部を道連れにすると、五月が悲鳴を上げる間もなく僕達の頭上を飛び越えて行った。直後に目の前の柱が勢い良く倒れる。そして、残された壁の残骸と剥がれた床がバラバラになりながら飛んできた。
僕は諦めて目をつぶった。
気付くと体のあちこちにあざが出来ていた。あれからどれだけの破片がぶつかったのか分からない。とにかく雨はやんで、風も大体収まった。旧校舎は跡形もなくなってしまったけど、僕は運良く生きているし五月に至ってはほとんど無傷だった。
五月は、腕をゆるめても僕から離れようとしなかった。まだ風が吹いてるからと言ったけど、何だか違う理由があるような雰囲気。
不意に光が僕の目を差した。反射的にそちらを振り向いた僕は一瞬目を疑い、すぐに五月の頬を叩いて明後日の方向を指し示した。
一本だけ残った柱の向こうに夕陽があった。相変わらず怪し気な黒雲と教室の残骸に挟まれて、赤みがかった光を振りまいている。
「まだ夕方だったんだね」
そう言って肩に手をかけると、五月は抵抗なく寄りかかって来た。
しばらくしてから走馬灯の事を思い出したけど、五月に聞くのはやめにした。五月はまだ少し震えているし、僕はもう十分だ。僕達はただ夕陽を眺めている。あれが聞こえていようといまいと、もうどちらでもいいんじゃないかと思う。
これまた三題噺のコンテストに応募したやつです。くどいようだが題目は以下の三つ。
時間「夕方」
場所「密室」
人物「幼なじみ」
時期的に台風ネタはよろしくないのではとも思いましたが、季節変わったからいいや。気にしないよう努めます。選ぶ側が気にしちゃったらどうしよう。何で台風なんて使っちゃったんだよこの莫迦野狼!叫んでも後の祭りであります。というかエレベーターと同じ構成ってのはどうかと思う。
五月が異様にキャッチーなキャラになったとわたくしは思うんですけど、皆さんから見てどうですか。そうでもないか。